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2005-12-11

〔教育改革情報コラム 夢の一枝〕  荒地としての教室

 「教室施錠『逃さぬため』」
 「京都・小6殺害 塾講師が供述」
 「講師の内面 見極め難題」

 日曜日(12月11日)の「朝日」朝刊1面に、こんな見出しの、準トップ記事が載っていた。
 宇治市で起きた、例の事件の続報である。
 
 朝、友人に頼まれたモーニングコールをかけおわり、寝床に戻って記事を読んでいるうちに、「荒地(あれち)」という言葉が心に浮かんだ。

 荒地、英語でいう、Wasteland。

 自然の荒地ではない。

 T・S・エリオットの詩、以来、近代文明により荒廃し、不毛の地と化した、わたしたちの世界を指すようになった言葉だ。

 昼、ジョギングから帰り、米国のサドベリー・バレー校から届いた原稿の翻訳に取り掛かったら、もうひとつ、気になる表現にぶつかった。

 in a sterile atmosphere

  翻訳原稿では「つまらない環境」と、とりあえず訳しておいたが、「実を結ばない環境」、とでもいった方が、意味的にはより正確かもしれない。

 ともあれ、その「実を結ばない環境」と「荒地」のふたつが、ひとつになって、いま、このブログを書いている、胸の奥の方で、目覚ましのベルのように鳴り続けている。

 
 京都・宇治市の「学習」塾で、「先生」が「生徒」を「教室」で「殺した」。

 加害者は同志社大学の4年生(23歳)。
 被害者は小学校6年生の女子(12歳)。

 11歳しか違わないのに、片方は「先生」になり、もう一方は「生徒」になっていた。

 「先生」をしていた大学生は、受け持ちの「生徒」を、「教室を内側から施錠し……閉じ込め」、包丁で刺した。
 ハンマーも用意していたという。

 「先生」が「生徒」の命を奪った。
 包丁で首を刺し貫いて。
 刺してもだめなら、ハンマーで頭蓋骨を叩き割っていたかも知れない。

 「先生」はなぜ、「生徒」を殺すことができたか?

 それはたぶん、「先生」の側に、「生徒」に対する、一方的で絶対的な支配があったからだ。

 教え込む。従わせる。
 課題を出す。解いて来させる。

 凶行は一方的・絶対的支配の延長線上で起きた。
 教え込む・課題を出す「教育活動」の「限界状況」のなかで、「殺人」は行われた。
 
 「生徒」はおそらく、「先生」に従わず・解いて来なかったのだろう。
 「先生」は「生徒」の抵抗に遭い、「先生」でなくなりかけていた。

 受験競争をそこそこに勝ち抜いたこの同志社大学の学生にとって、いま「先生」として、その子に教えていることは、自分という存在を形成する大事な部分であり、自分自身のアイデンティティーの一画をかたちづくるものだった。

 それが「生徒」に否定された。

 「生徒」に否定されるということは、自分が「先生」でなくなる、ということである。
 
 ふつうの「学校」ならいい。「先生」は、その「生徒」に頭が悪いというレッテルを貼り、低い成績をつけ、「塾へでも行って勉強して来い」と怒鳴りつけていればいいのだから。

 しかし、ここはあいにく「塾」だった。

 朝日朝刊によれば、それも厚生労働省の委託で、講師の「技量認定システム」づくりが進む、「先生」の能力評価に熱心な「塾」だった。

 そこで「生徒」の抵抗に遭えば、「先生」である自分は「先生」でなくなる。

 おそらくこの同志社大学生は、「先生」である自分の全存在をかけて、自分を否定するものを抹殺しようとしたのだろう。

 最初から殺意があったかどうかはわからない。脅すつもり、だっただけかもしれない。しかし、殺意を制御できず、包丁で突き刺した。

 その瞬間、この若者のなかの「先生」は、「先生」として「完結」した。
 それも、「一対一」の、「教室」のなかという、まさに「教育的なシチュエーション」のなかで。

 包丁の先は、女の子のなかの「生徒」でない部分に向かっていたのだろう。
 その部分を貫きとおすことで、「先生」の「教育活動」は最高点に達し、そして12歳の少女の未来と可能性が奪われた。

 不条理なまでの純粋さ。
 それはおそらく、「塾」がふつうの「学校」のような強制力を持たないことで起きた、増幅された悲劇とでも呼ぶべき種類のことであろう。

 しかし、忘れてはならないのは、同じようなことが、塾ではなく「学校」で、これまで繰り返し、起きている事実である。

 鉄製の校門をぶちかまして、登校して来た生徒を死なせたり、態度が悪いと殴り殺したり。

 体罰や暴行はまさに日常茶飯事である。

 宇治市の事件は、そうした「学校」の状況が、「塾」にまで及び、極端なかたちで噴き出したとみるべきであろう。

 「荒地」のような日本の教育の風景。

 命の実を育てるどころか、「先生」が「生徒」を「教室」のなかで殺してしまう、日本の教育の不毛。

 サドベリー・バレー校から届いた原稿にあった、「実を結ばない環境」とは、「先生」が「生徒」を一方的・絶対的に支配し、従わせ・解いて来させる、ふつうの「学校」の「教室」を指す言葉だ。

 ボストン郊外にある、その自由の学校には、「先生」もいなければ「生徒」もいない。子どもたちを閉じ込める「教室」もない。

 上下関係もなければ、年齢差別もない、デモクラティックなコミュニティー。

 ナチュラルな「学び」のなかで、こどもの数だけ結実が進む。

 同志社大学の学生の「内面」を探りながら、サドベリー・バレーのような場所を、この日本に、もっともっとつくって行かねばならないと、痛切に思った。

 

Posted by 大沼安史 at 10:25 午後 2.教育改革情報 |

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