〔コラム 机の上の空〕 ローザ・パークス 頌
人種差別のバスに座り続け、黒人公民権運動の口火をきったローザ・パークスさんの葬儀が11月2日、米ミシガン州デトロイト市で行われた。
4000人もの人びとが参列したキリスト教会での葬儀のもようを、地元紙(デトロイト・ニューズ、デトロイト・フリープレス)などの電子版で読んで、考えさせられた。
バスに乗ったひとりの黒人女性の、たったひとりの、50年前の抵抗が生んだ、希望と救い。
徹夜で並んだ開場を待った黒人参列者たちに、クリントン前大統領夫妻ら白人らも加わって、「新しいアメリカの母」(ジェシー・ジャクソン師の言葉)に最後のお別れをした葬儀は、あらためてアメリカという白人優位社会の原罪を償い、民主主義の未来に架橋する、新たな通過儀礼でもあった。
パークスさんが南部アラバマ州モンゴメリーで、白人専用のバスの前部座席から、立ち上がるのを拒否したのは、1955年12月1日。
その日のことを、クリントン前大統領は弔辞のなかで振り返った。
南部アカンソー州に住む、当時9歳のクリントン少年は、パークスさんが白人に席を譲らなかったことをニュースで知った。未来の合衆国大統領は2人の友だちと語らって、パークスさんに連帯することを決意し、バスの前部座席に座ることを止めたという。
「それは、3人のふつうのこどもの、ささやかなジェスチャーでした。しかし、その小さな行動は、こどもたちの心のなかで、親たち、祖父母たちの心のなかで、何百万回となく繰り返されて来たのです。そして、それはついに、彼女がわたしたちすべてを自由にしてくれたことを証明した………(中略)彼女は、わたしたちの目を開き、合意させてくれたのです。人はみな、自由であるべきだと」
7時間に及ぶ葬儀の最後に、弔辞を読んだのは、黒人指導者のジェシー・ジャクソン師だった。
「グッドバイを言う、それだけのことに、これだけ長い時間のかかる人がいる」と。
92年のパークスさんの人生は、アメリカの朝に向かってひた走る、大陸横断バスのような旅路だった。
パークスさんが南部を逃れ、デトロイトにやってきたのは、1957年のこと。以来、ミシガンのこの都会は、彼女の第二の故郷となった。
自動車の町、フリントの博物館には、彼女が座り続けたバスが永久保存されている。
彼女はデトロイトに来てからも、活動を止めなかった。
財団をつくって、デトロイト市内に住む、黒人の子どもたちの教育を支援して来た。奨学金を出し、ワークショップを開いて、都市部の貧困な子どもたちに救いの手をのばした。
その教育支援は、彼女にとって、南部での黒人公民権運動の延長であったろう。
ミネソタ州にすむわたしの友人の話では、彼女の最後の夢は、デトロイトに彼女自身のチャータースクールをつくることだったという。
老衰が夢の実現を阻んだ。
いまから20年ほど前、わたしはミシガン州に住んでいて、デトロイトからきた長距離バスに乗り込み、シカゴ経由でミネソタに向かったことがある。
隣り合わせた席に、黒人の夫婦がいて、会話を交わした。
聞けば、シカゴでニューオルリーズ行きのバスに乗り換え、南部に向かうのだという。
身内が死んだので、このバスに乗っているのだと。
シカゴはまるで別方向。自分の車もなく、デトロイト空港からの飛行機代も持たない、この貧しい黒人夫婦にとって、グレイハウンドのバスを乗り継ぐしか、ほかに方法はなかった。
それが1980年代半ばのアメリカの現実の、少なくとも一部だった。
デトロイトでのパークスさんの葬儀の記事を読みながら、この黒人夫婦はいまごろどうしているのだろう、葬儀には参列したのだろうか、と思った。
ワシントン・ポスト紙の記事は、会場のグレーター・グレース・テンプル教会の近くで、サキソフォンの男が「ウィー・シャル・オーヴァーカム」を演奏していたと書いていた。
会場のなかでも、「ウィー・シャル・オーヴァーカム」の大合唱。
わたしたちは、必ずや、打ち勝つだろう
いつの日か。
オー、わたしの胸の奥ふかく
わたしは、たしかに信じている
わたしたちが必ず、打ち勝つことを
アメリカの黒人をめぐる状況は、半世紀前と比べ、法的な面では改善されたが、実生活の面ではなお足踏みを続けている。最近は逆に悪化さえしているとの指摘もある。
アメリカの民主主義はなお、理想の地に向かって、バスを走らせなければならない。
それは、わたしたち、日本の社会にとっての課題でもあり、目標でもあろう。
バスの道筋を定めた、ローザ・パークスさんの死を悼む。
Posted by 大沼安史 at 09:08 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink

















