〔コラム 机の上の空〕 日高六郎氏の『戦争のなかで考えたこと』
風邪がぶり返し、のどが痛む。朝、寝床のなかで、読みたかった本を読み出した。
社会学者、日高六郎氏の『戦争のなかで考えたこと』(筑摩書房)。
読み終えて、感想を書いておこうと思い、布団のなかから這い出した。
中国の青島で育って、日中戦争の行方を見守り、東大の助手として敗戦の日を迎えるまでの、日高氏の回想録である。
大事なことを、たくさん教えていただいた。日高氏が忘れなかったことのいくつかが、わたしにとっても、忘れえぬものになった。
氏の体験と思索の一部が、戦後生まれのわたしのなかに、薬のようにしみわたった気がした。
たとえば、1937年7月。旧制東京高校の生徒だった日高氏は、七夕の7日、下関から青島へ向かう船に乗った。4回目の帰省。
翌日、その船内でガリ版刷りの「号外」が配られる。前日7日早朝、北京郊外で起きた盧溝橋事件を知らせるものだった。
甲板に出た日高青年は、手すりにもたれ、じっと海を見つめる、ひとりの中国人留学生の姿に気づいて、声をかける。
中国に帰る中国人の若者と、中国の日本人居留地に戻る日高青年。
甲板のベンチでの二人の対話は、日没まで続いた。
「7月8日の太陽は、やっと雲間からあらわれて、黄海に落ちていく。水平線に近づくにつれて、その円形は3倍ほどにふくらみ、やがてその光は直視できるほどに弱まり、少しずつ水面下に落ちた。北京郊外では、日中の若者が戦っているのかもしれない。ベンチの上の2人の若者は、お互いの運命の異同を知っていた」
再会を約束したが、二度と会うことはなかった。
日高氏はさらにこう書く。
「彼はすぐ抗日戦線に入るための準備をしたのかもしれない。戦争は人間を苦しめる。しかし、戦争をしかけられた国の若者は、より積極的に苦しみを引きうけた」
船上での出会いと別れ。一度きりに終わった対話。
それはささやかで、儚いものでしかなかったかもしれない。しかし、日本の若者と中国の若者が、日中戦争の勃発という、歴史の転換点にあって、率直な話し合いを、黄海を行く船の上で、成し遂げていた事実は、日高氏の証言が出た以上――そしてそれを読む者がいる以上、消えはしない。
忘れてはいけないし、そう思った瞬間、すでに忘れられないものになっている、語り継ぐべき場面の描写である。
あるいは、戦争が終わると同時にアジアの各地で神宮、忠魂碑の類が、ひとつ残らず、地元の人びとの手で破壊された意味をめぐる、日高氏の指摘。
「敗戦となった年の秋、青島の忠魂碑と青島神社は解体撤去されたという。……大日本帝国と日本軍の象徴は完全に消滅した。青島でそのように処分されたのは、このふたつの建造物だけである」
「その意味は、精神的侵略をゆるさないということにつきる。S先生(大沼注 青島の中国人の先生)の言葉を借りるならば、中国人の心を不作法・無礼に傷つけていた日本の象徴を、中国の土地に残すことを許さなかったということである」
これなども、忘れえぬ、忘れてはならぬ言葉だ。
アジアの人びと、とりわけ中国の人びとが、どのような歴史的視野のなかで、「靖国」というものを焦点づけてみているか、日高氏のこの指摘を読んで、初めてわかったような気がした。
その他、
壮大な青島の忠魂碑と神社が、日本軍による阿片密売資金により造営されたという疑惑。(大沼注 これは、佐野眞一氏の『阿片王』ですでに暴かれている)
南京攻略前にすでに、中国人の死体の山を、軍艦に積み込み、海に捨てに行っていた事実(海軍軍人の証言)。
等など、日高氏の「記憶」のひとつひとつが、読後の心に居残って、離れようとしない。
当然のことながら、日高氏にとって、彼自身「戦争のなかで考えたこと」に「戦後」はなかったはずだ。それはいまに生きる歴史として、絶えず甦り続けて来たのだろう。
その記憶をさらに再生していく。
それが、この本の読者であるわたしたちの務めである。
風邪のおかげで、大事な一冊がまた増えた。
Posted by 大沼安史 at 01:03 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink

















