〔コラム 机の上の空〕 靖国は雨だった
晴れていたら、よかったのに、と思った。
大陸からの高気圧が日本列島を覆い、境内の空も天高く澄み渡っていたなら、すこしは違っていたろう。
歴史のように、重く垂れ込めた雨雲。
鳩さえも姿を隠した九段の杜(もり)。
小泉首相の、ことしの初詣の舞台は、学徒出陣の朝のように、冷たく陰鬱な雨模様だった。
首相自身、悔いの残る参拝だったかもしれない。
雨さえ降らなければ……。
雨さえ降らなければ、戦時中の記録映画のような、色あせた参拝にはならなかった。
水色のネクタイは、やわらかな陽ざしの下、一筋のさわやかな印象を残したことだろう。
すべてが寒々として、野暮ったかった。
ずぼんのポケットから無造作に取り出し、祈りも込めずに、クイックモーションで投げ入れた賽銭。
湿った賽銭箱からは、空耳の硬貨の音さえ、響いて来なかった。
「フツーの国のフツーの参拝」をアピールするはずだったのに、ドブネズミ色の背広姿では、形式的に過ぎた。
日本の神社の、秋の境内ではなかった。
寅さんの映画の、お寺のふんいきの気配もなかった。紅葉の一葉さえも。
雨さえ降らなければ、境内のどこかで、落ち葉を焚く姿も見られたかもしれないのに。
戦争遂行を目的とした、神社でもないものが、神社としてあった。
境内ではなく、兵営のような構内。
晴れた日を選べばよかったのに、と思った。
神風の吹かなかった「神の国」にも天気予報というものがあるのに、と思った。
どうしても私人として参拝したいなら、おだやかな休日の朝にすればよかったのに。
それも、暖色系のウォーム・ビスで。
そうして、静かに、「非戦の祈り」を祈ればよかった。
どうしてもこの日、参拝しなけれならなかったなら、やり方があったはずだ。
朝、中国の首相に電話をかけ、「神舟6号」の成功をたたえたうえで、私人として参拝する真意を説明する時間的余裕はなかったのか。
首相官邸に戻ってから、記者団にマイクを突きつけられたときだって、そうだ。
そのときの「首相のひとこと」にアジアの全注目が集まっているのに、「決めゼリフ」が足りなかった。
靖国に参拝して「二度と戦争はしない」と誓った。
これはいい。少なくとも「もう一度、戦争をします」よりは。
しかし、同じ科白の繰り返しだけでは、聞く者の心は動かない。
英霊たちは戦争は二度とごめんだと言っている。わたしは先の大戦で亡くなられた方々の平和への祈りをともにするため、参拝した。わたしの靖国参拝は、戦争への反省と平和の祈りであり、非戦の決意表明である。
と、どうして言えなかったのか。
しかし、繰言は言うまい。
問題は、次にどうするか、である。
行かない方がいい。
しかし、来年もまた、首相在任中に、どうしても靖国に行くというのなら、これは「英霊とともにする平和の祈りだ」「わたしは亡くなられた方々の非戦の祈りにこたえたい」と、なんとしても言ってほしい。
そして、明確な謝罪の言葉を口にする。
そうすれば、アジアの人びとの対日感情も、すこしは、やわらぐだろう。
たとえ、その日、雨が降ったとしても、靖国からの首相の言葉は雲をつき抜け、北京の空にもソウルの空にも届くだろう。
首相の平和の祈りと謝罪によって洗い浄められるのは、神社の石畳だけではないだろう。
雨は日本とアジアの新しい友好関係を生み出す恵みの雨となり、そこに歴史の小さな泉を残すかもしれない。
首相の花道は、たぶん、そこにある。
Posted by 大沼安史 at 10:50 午後 3.コラム机の上の空 | Permalink

















