〔NEWS〕 「渇っ! BOO仙人の連坊語録」 、新連載(随時ですが……)開始! 記念すべき?「第1回」は、なんと「誰が、日本語を殺したか?」
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1984年5月、わたしはニューヨーク・マンハッタンの安宿を根城に、1ヵ月、この街を歩いた。週決め料金の安宿のロビーには、いつも登山靴をはいた白人の娼婦がいて、そのうち挨拶を交わすようになった。
運動靴を履いたわたしは1ヵ月間、ニューヨークの下町を歩き回った。ウェストサイドの公立オルタナティブ校、「ドーム・プロジェクト」、イースト・ハーレムの第4学区(SD4)の新しい公立学校の群れ……。
そんなある日、コロンビア大学の近くに行ったので、キャンパスを覗いてみようと思って立ち寄ったところ、セキュリテー・ガードに構内立ち入りを阻まれた。
コロンビア大学の卒業式の日だった。
◇
アメリカの改革者、バラク・オバマの自伝を読んで、次の大統領になろうとする彼が、その年、コロンビア大学を卒業したことを知り、少し変な気がした。
あの日、オバマは、コロンビア大学の卒業式に出ていた(はず)! それもイースト・ハレームの外れの、自宅アパートから出て!
オバマとわたしはもちろん、会ったこともないが、イースト・ハーレムに通い込んだわたしとしては、勝手な親近感を感じざるを得ない。
「2項対立」の不毛を「コモン」(共通項)を足場に乗り越えようとするオバマは、あの、「イースト・ハレームの奇跡」を身近に感じて(知って)、学生時代を過ごした男なのだ。
◇
ニューヨーク第4学区(SD4)、イースト・ハーレム。この学区で1970年代の終わりから、どんな学校改革が行われたか、は今さら言うまでもなかろう。
ニューヨークの公立学校の教師の誰もが転勤したがらないこのスラムで、そこに踏ん張る教師たちが、さまざまなタイプの新しい公立学校群を産み出したことは、アメリカの教育史に燦然として残る、歴史的な偉業である。
中でも有名なのは、デボラ・マイヤー女史が創設したCPE(セントラル・パーク・イースト)。
そのほか、演劇学校、海洋学校、理数学校など、さまざまな公立校が、新校舎のいらない「学校内学校」形式でどんどん開校し、文字通り、百花繚乱の季節を迎えていた。
◇
このイースト・ハーレム、SD4のように、公教育システムそのものが、官僚制の統制・画一主義を打破し、教師たちのイニシアチブで、多様な、新しい公立学校群が生まれるのは、たしかにひとつの理想ではある。
が、公教育の官僚制が、それを認めようとしないのは、アメリカにおいても、アメリカでなくても、フツーのことである。統制&支配……新たな学校の創出を、公教育に巣食うエデュクラシー(教育官僚制)は、阻もうとする。
教育官僚制と化した公教育が、新規参入を認めない惰性態と成り果てているのだ。
◇
そういう硬直化した教育官僚制の統制に対し、公教育の枠組みの中で、どのようにして、フレッシュな新しい、公的な学びの場を生み出していくか?……そんな問題意識の中で生まれたのが、アメリカの「チャータースクール」である。
生徒1人あたり、公校教育費の7割ほどを交付する「チャータースクール」とは、公立学校の教師集団により、ニューヨークのスラム学区、SD4で生まれた、子どもたちのための新しい公立学校群を、SD4のような奇跡の学区ではない、フツーの学区で創設する仕組みを指す。
◇
その「チャータースクール」に対して、日本の「進歩主義者」たちから悪罵が浴びせかけられているのは、残念かつ淋しい限りのことである。
公教育の破壊、市場原理の導入、公教育を圧殺する「ネオリベラリズム」による総攻撃……
ならば、彼らに、こう問うてみたい。
過疎化して統廃合され、廃校が決まった地域の公立校を、チャータースクールとして守り抜こうとしている、ミネソタのド田舎の元公立学校教師集団は、「ネオリベ」なのか?
自分たちで「学校共同組合」を創り、チャータースクールという、もう一つの公立学校群を生み出し、自ら運営している教師たちは、「市場原理主義者」なのか?
◇
あきれ果て、開いた口がふさがらなかったことがある。
「チャータースクール」を、「階層化ですよ(笑い)」と嘲笑った(としか、わたしには思えなかった……)、ある日本の高名な教育学者が、その一方で、CPEのデボラ・マイヤーがマサチューセッツで始めた学校のことを、これこそ「学びの共同体」と称賛していたことだ。
マイヤー女史が、マサチューセッツで開いた学校がチャータースクールであることを、知ってから知らずか……。
◇
同じことは、「教育バウチャー」についても言える。
「教育バウチャー」は、あの市場原理主義者、ミルトン・フリードマンが提唱したことだから、絶対に認めめらいない、という議論である。
たしかに、フリードマンの議論は、バウチャーの全面導入による公教育の全面解体を促す(市場原理に曝す)もので、それに対しは強烈な反駁を加えなければならないが、だからと言って、フリードマンのクソ親父と一緒に、バウチャーの理念まで廃棄処分にしていいものではない。
アメリカの大都市、ミルウォーキー、クリーブランドで導入されたバウチャーの推進者は、民主党の黒人女性・州議会議員であることを忘れてはならならないし、スウェーデンでの幼児教育バウチャーの実施例まで、「ネオリベ」の一言で、その意義を否定し去ってはならない。
◇
先日、米国の雑誌、「フォリーン・アフェアーズ」(2008年3・4月号)を読んでいて、日本の「ネオリベ」批判者たちに聞かせてやりたい一文に出くわした。
ロバート・カトナー氏の「コペンハーゲン合意」なる論文である。
この論文は、デンマークの雇用の「安全」と「柔軟性」を、二項対立として考えるのではなく、両立可能にしているデンマークの経済的な秘密((「フレセキュリティ」ー」=「フレキシビリティー」+「セキュリティー」)を検証したものだが、そこにこんな一節がある。
(デンマークでは)私立校、宗教学校がその運営費の85%を政府からの補助金で得ることができる。アメリカでは、右翼によって推進されている「学校バウチャー」だが、デンマークでは 政府によって財政支援されている私立学校が、社会的な安全弁として左翼よって受け容れられている。(P82参照)
カトナー氏はバウチャー的公的援助を、デンマークでは左翼が容認している、と驚いているのだ。これは経済を専門とする氏の「初めて知った」驚きだが、ついでに一言付け加えれば、アメリカでもバウチャー導入論は右派のみならず、左派からも出ているのである。
◇
横道に逸れかかった話を元に戻すと、もちろんわたしもまた、「ネオリベ」批判者の「善意」を疑うものではない。公教育を破壊してはならない、という彼らの主張に、わたしもまた大賛成である。
が、問題は、守るべき・創るべき「公教育」のあり方なのだ。
日本の文科省による「公教育」は、戦前から続く「国家教育」であり、「ファシズムの教育」である。
それに対して、どんなレジスタンスで立ち向かい、どんな新しい教育の場を築いていくか……それがわたしたちに求められていることである。
◇
最後にもう一度言おう。
日本の「ネオリベ」批判派は、たとえば世界がいま注目する「基礎所得(ベーシック・インカム)」について、どんな見解をお持ちなのか?
「基礎所得」の分配は、フリードマン一派とは一線を画する、アメリカのエガリテアリアン(格差是正主義者)たちが求める「バウチャー」と、その本質においてどこが違うのか、と。
◇
昔、新聞記者をしていたころ、コペンハーゲンを訪ねたとき、デンマークの文部省からもらった英語のパンフレットに、「デンマークには、子どもしか資源がない」と書かれてあった。デンマークはだからこそ、教育を、子どもを大事にすると。
そのデンマークについてキリスト者、内村鑑三は明治の末、ドイツとの戦いに敗れ、国の南部を失ったこの小国が、植林を通じて「己の国を改造」「さらに新たによき国を得た」ことを、日本は学ぶべきである、と講演で語った。(岩波文庫、『デンマルク国の話』)。
そして、21世紀初めの今、そのデンマークを、経済破綻と社会崩壊の最中にある、アメリカの経済学者(カトナー氏)が、再生のモデルにしようと呼びかけている。
◇
内村鑑三は上記講演の中で 日本の「軽重浮薄な経世家」を批判し、そんな「愚かなる智者」ばかりでは国を滅ぼしかねないと、述べているが、「ネオリベ」批判の「一つ覚え」で創造の芽を摘み取ることは、まさに亡国の大罪であろう。
デボラ・マイヤー女史に見習い、日本の教育に、子どもたちが硫化水素で「集団自決」せず、自由に安心して学べる、多様な、希望のフレセキュリティーを!
不毛な嘲笑と悪罵の2項対立の平行線を超える、オバマ的「第三の道」の柔軟さを!
日本の教育にも、柔軟(脱官僚主義)と安全(脱市場原理主義)が共存する「コペンハーゲン合意」が、この国の死活の問題として求められている。
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Posted by 大沼安史 at 10:29 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
北海道の最東端は、根室の納沙布(ノサップ)岬だ。日本の最東端ではないが(銚子の犬吠崎が最東端に位置する)、日本の「最果て」の、少なくとも一つであることは確かである。
最果て、納沙布の岬……そこが地の果てであることは、地理的であるよりも感覚的である。突堤のように突き出た半島が突然、そこで終わり、濃霧の海が断念を迫るように視界を閉ざす。
1971年、新聞記者になり立てのわたしは、その根室で取材活動を始めた。
その頃のことで今も忘れられないことがある。納沙布に続く一本道の沿道を、タンポポの黄色い前線が毎年、着実に、最果てを目指し、進んでいたことだ。
タンポポ(西洋タンポポ)の綿毛が、車輪の巻き上げる風に乗って、一路、岬を目指していた。
◇
そんな納沙布のタンポポを思い出したのはほかでもない。仙台の「NPO法人わたげの会」が、10周年を迎え、会の理事長の秋田敦子さんが、小さな本を記念出版したからだ。
秋田さんがこの10年の続けて来た、ふんわり、やわらかで、無理なく、しかも決然とした歩みに思いを馳せているうち、あの根室の道路沿いのタンポポの花が目に浮かんだからだ。
本のタイトルは『わたげ・希望の種』、版元は、わたしたち(故・小池平和氏ら有志)が1997年2月に仙台に創設した出版社、「本の森」である。
◇
わたしが秋田敦子さんと初めてお会いしたのは、「本の森」を立ち上げた、その年の夏のことだ。
秋田さんは当時、お寺の部屋を借り、お年寄りや障がい(秋田さんは、「障害」ではなく「障がい」と書く)を持った人たちの居場所を開いていて、わたしは一方通行の通りに面したその居場所を、車で訪ねたのだ。
なかなか探し当てられないわたしのために、秋田さんは通りに出て来て、手を振ってくれた。白いブラウスが、昔の女学校の女学生のようで眩しかった。
◇
そんな秋田さんの居場所、「わたげ」に、「肩幅の広い、がっちりとした、体格の良い青年が、小柄な母親とともに」訪ねて来たのは、翌98年6月のことだ。
「その外見とは裏腹に……表情が不安げだったことが今でも印象深い、その青年の出会いが、それから十年の私の人生を動かしていくとは、その時には想像もできなかった」と、秋田さんは書いている。
お年寄りや障がいを持った人たちが、ふらっと遊びにゆける「わたげ」に、ひきこもりの若者や子どもたちも来るようになった。
◇
その2ヵ月後の同年8月、「わたげ」は広瀬川沿いの古い家を借りて、「フリースペースわたげ」として再出発する。その後、組織をNPO法人化して態勢を整え、これとは別に社会福祉法人「わたげ福祉会」をも発足させて、今では自前の施設を中心に、10歳から39歳まで200人が生活しながら進学や自立を目指す場となっている。
就労訓練で蕎麦屋も直営している。「わたげ茶屋」……夜は居酒屋になる。全国から見学に来る人たちのための、宿泊施設もある。
「わたげ」はいつの間にか、そこまで育っていた。
◇
「わたしたちの活動にはマニュアルも期限もありません」と、秋田さんは本の最初のところに書いている。
時間の管理も、マニュアルによる管理も、「わたげ」にはないのである。
じっくり時間をかけ、他者への信頼と、自分に対する自信が根付くのを、ふんわり、やわらかく、無理せずに自然体で待つ。
そうして今年は3人が……登校拒否で勉強に背を向けていた3人の若者が、自分の意志で大学に進学したそうだ。
◇
秋田さんの本の巻頭に、あの有名な、エリュアールの詩、「自由」の一節が掲げられている。
…………………………
ひとつの言葉の力によって
僕の人生は再び始まる
僕は生まれたのは 君と知り合うため
君を名ざすためだった
自由、と
(安藤元男訳、岩波文庫『フランス名詩選』より)
◇
大学を出て、新聞記者になったばかりのわたしは、根室という見知らぬ土地で、不安な社会人生活を始めていた。
仙台に生まれ、仙台に育ったわたしは、根室にもタンポポが咲き、それが納沙布目指して歩みを止めないでいることに慰められ、勇気付けられたものだ。
ふんわり、やわらかく、無理せず、決然と……
わたしもまた、いま人生の岬へ向かう最後の旅の途上に立ち、「わたげ」で暮らす子どもたちや秋田敦子さんに見習って、自然体の、自由な「わたげ」として生きたいと切に思うものである。
☆ 秋田敦子さんの本は、間もなく書店の店頭に並びます。本体1200円。四六版129頁。
問い合わせは ⇒ 「本の森」 電話 022(712)4888
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Posted by 大沼安史 at 12:16 午前 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
南ア出身のアメリカの教育学者、バレリー・ポラコウさんに、「子ども期の崩壊」(The Erosion of Childhood)という本(邦訳名、「失われ行く子供期」(家政教育社、同書の後半部分は拙訳)がある。子どもの人間的な成長にとって(あるいは社会の未来にとって)、かけがえのない「子ども期」が、いかに幼児教育の現場で侵食されているか実態を観察、考察を加えたものだ。
ポラコウさんはブラジルの教育学者、故パウロ・フレイレが「学問上の娘」と呼んだ人だ。わたしはその彼女について学んだから、フレイレの「孫」になる。もちろん、「不肖の孫」であることは百も承知のことではあるが……。
「学校教育」による「子ども期」の崩壊現象は、とくに1970年代になってから、子ども総体に及ぶ社会的な危機として、さまざま論者が指摘し、警鐘を鳴らして来た(ジョン・ホルト、ニイル・ポストマン等)。「好奇心」の破壊、教授法における「恐怖・威嚇」の動員……などが、その内実である。
アメリカにおける、いわゆる「脱学校」の運動、学校のラジカルな改革の動きは、こうした危機感を背景に湧き上がった。
もちろん「学校」はおしなべて、自分たちは「教育者」であるとの「認識」「存在理由」に立ち、こうした批判に耳を傾けて来なかった。「子ども期の崩壊」を叫ぶ者に対しては、異端者として声高に非難して来たのである。
つまり、60年代、70年代においてフリースクール運動が高揚したアメリカにおいてさえも、そうした批判意識の持ち主は極少数にとどまっていた。「子ども期の崩壊」などという問題意識は、学校関係者の間で、皆無に等しかったわけだ。
◇
その風向きが変わって来たようである。
英紙インディペンデント(電子版)を見ていたら、3月11日付の紙面に、英国の教員組合(ATL)が政府に対し、「なぜイギリスの子どもたちは不幸せななのか、をさぐる」独立調査委員会の設置を求める決議を挙げる――との記事が、フロントのトップ記事として載っていたのだ。
英国の小中学生は700万人。この子たちがこの国の未来を構成することになるわけだが、その中の「多くの子どもたちが不幸せで不安を抱えているように見える」、その原因は一体、どこになるか、独立委員会を設け、客観的な視点から究明しようと、脱学校の運動家・思想家ではなく、教員組合が言い出したのである。
本ブログで既報の通り、英国では「ケンブリッジ・プレイマリー・レビュー」調査によって、テスト漬けの英国初等教育の問題点が明らかになったばかり。
この点から見ても、子どもたちの「不幸」「不安」の少なくとも一因は、「学校教育」にあるはずである。
AFTが採択する予定の決議文に、「子どもたちは圧力を感じることなしに、自分自身の学びを探求し探索し、楽しまねばならない」とあるのは、その裏返しの教育環境に子どもたちが追い込まれている、との反省があるからだ。
「社会が悪い」「親が悪い」と逃げずに、自分たちの教える現場の問題点を追究しようとするAFTの姿勢は、評価に値しよう。
だが、もちろん「学校教育」だけはない。
英国では、サウス・ウェールズの田舎町で10代の子どもたちが相次いで自殺を遂げるなど、「子どもたちの心が壊れやすい状態にある」。これは、「学校」を取り囲む(「学校」に浸透する)、家庭・社会環境とも関係することだろう。
が、だからといって「責任配分ゲーム」にうつつを抜かすことは許されない。
問題は「学校」として(「学校」を運営する政府として、「学校」で教える教師として)、責任をどう引き受け、問題をどう乗り越えていくか、ということである。
◇
子どもたちの「不幸」「不安」に対し、正面から向き合い始めた英国の教師たち。
われわれ日本人もまた、彼・女らの姿勢、問題の設定の仕方、解決への意欲に学ぶべきである。
「教育問題」を「学力」や「授業時間数」の問題に矮小化してはいけない。
子どもたちの苦しみを受け止め、そこからともに歩み出すのが教師の務めであり、政府(教委、文科省)の責任ではないか。
日本の教育改革も、たぶんそこから出発しないと意味はない。
⇒ http://www.independent.co.uk/news/education/education-news/why-are-children-so-unhappy-794033.html
Posted by 大沼安史 at 01:24 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
英紙インディペンデント(電子版、2月29日付け)が、ケンブリッジ大学の主導で行われていた、「英国初等教育」に対する評価結果、「ケンブリッジ・プライマリー・レヴュー」の報告書が発表された、と報じた。
同レビュー報告書の内容は、ガーディアン紙ですでに報じられており、本ブログでも紹介したが、今回のインディペンデント紙の報道は、核心に迫る、力のこもったもので、一読の価値はある。〔文科省、教委、教育学者の方々には是非とも読んでいただきたい〕
同紙によれば、この「レヴュー」は過去40年における最大規模の調査研究で、前ブレア政権がサッチャー政権が進めた「タイトに中央集権化した英国の初等学校」は「子どもたちの教育に破壊的な打撃を及ぼしている」と結論付けた。
「破壊的な打撃(a devastating impact)」……「レヴュー」はそこまで言い切っているのである。
それでは何が、英国の小学生たちに破壊的な打撃を及ぼしているかというと、報告書は「学習における国家理論(state theory of leaning)」に元凶だと指摘している。
そういう「国家教育」体制の下、学習分野を狭める「全国カリキュラム」が導入され、「進路のかかった学テ」が繰り返されてきた。
子どもたちを追い立てるばかりか、やたらと教師を使いまくり、その結果、「あまりにも多くの子どもたちが言葉も数字を正しく扱えないまま初等学校を出ていっている」というのだ。
これについて、バッキンガム大学のアラン・スミザース教授は、数値目標で管理した、旧ソ連の計画経済の崩壊を教訓とすべきだったと指摘している。
英国初等教育の惨状を乗り越える道をして同紙は、「学校は革新する自由を持たねばならない(Schools must be free to innovate.)」と提言している。
日本の前・安部政権が「モデル」とし、「学テ」再導入など、文科省が自ら躍起となって進める「公教育の国家統制」の「お手本」とした英国で、こうした全面的な見直しが行われ、「統制教育」は教育破壊の道であると結論付けられている事実を、日本の教育関係者はしかと見据えるべきである。
これ以上、「統制教育」の締め付けを強化すると、日本民族(日本人)の明日はないかも知れない……。
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Posted by 大沼安史 at 08:45 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
ホームスクーリング(在宅教育)を続けていたドイツの家族が相次いで国外に脱出しているという。
1938年にヒトラーがつくった「学校強制出席法」が亡霊のようにいまも生き残り、ホームスクーラーらの脅威となって立ち現れているからだ。
昨年あたりから出始めた脱出者は、その数、実に数百人に達しているという。
英紙ガーディアン(電子版)が2月24日に報じた。
それによると、そんな「亡命家族」のひとつ、クラウス・ランダールさん(41歳)一家はこの1月、ドイツ国内から英国に逃げて来た。
落ち着き先は、ドーバー海峡のワイト島。
この島を選んだのは、ホームスクーラー(ホームスクーリングをする家族、子ども本人を言う)のネットワークがあるためだ。
ランダール一家は奥さんと5人の子ども(2歳から11歳まで)の6人家族。
一家がホームスクーリングに踏み切ったのは、子どもが学校でイジメにあったのがキッカケ。子どもたちひとりひとりに自分の関心にもとづく学習をしてもたいたいという気持ちもあったという。
一家が、家も友だちも持ち物を放り出して逃げて来たのは、ヒトラーがつくった70年も前の法律がまだ生きているからだ。
ヒトラーのナチス・ドイツは、子どもたち(若者たち)全員の精神を完全コントロールしようとして、学校への登校を強制する法律を作った。
これが廃止されずにいることから、ドイツではホームスクーリングが非合法活動とされ、見つかると、子どもは家庭から引き出され、親に対しても罰則が与えられる。
これは昨年、実際にあったケースだが、メリッサさんという15歳の少女が家族から引き離され、15人の警察官によって精神科に連れて行かれ、心理テストを受けさせられた。メリッサさんがテストを拒むと、養護施設に入れられた。それでも彼女は16歳の誕生日に施設を脱出。それ以来、官憲は今のところ、手出しをしていない……
こういうことがヒトラーの遺産のおかげで実際、ドイツでは起きており、ホームスクーラーたちは周囲を目を盗んで在宅学習を続けるか、国外に脱出するか二者選択を迫られる状況下にある。
ヨナタン・スキット一家(奥さんと子ども5人)もドイツからワイト島に逃れた一組。
官憲によって脅迫を受けた挙句、銀行口座から預金を勝手に引き出され、車まで没収されたことから、英国に渡ることを決意したそうだ。
まだ、ドイツ国内に残り、ホームスクーリングを続けている家族は、支援組織によると800家族に上る。
ここ20年で世界的な潮流となったホームスクーリングがドイツにもそれだけ広がっているわけだが、オランダ、アメリカ(一部の州)など世界の先進国で合法化が進む中、戦前のファシズム教育の遺産が壁となって立ち塞がっているのはきわめて異例のこと。
1昨年(2006年)には国連の特別報告者がドイツの公教育の調査に入り、在宅教育に取り組む親の権利が保障されるべきだとする報告を行っている。
いまのところ、国外脱出先は英国が主だが、中にはイランに逃げて行った家族も。
ドイツは日本同様、管理教育がまだはびこっており、その分。PISA調査などで「学力低下」が指摘されている。
日本でも実はホームスクーリング運動が広がっているが、まだ当局とのトラブルは表面化していない。
ただし、日本の戦後教育は戦前のヒトラー流、「フォルクス・シューレ」(国民学校)の基盤の上に築かれたもので、縛り・強制力はいまなお、相当なものだ。
現在、西側先進国における教育の自由度は、ドイツ、日本が最低クラス。
ドイツが今回の「教育亡命続出」の事態を受け、どう制度改革に取り組むか、注目されるところだ。
⇒ http://education.guardian.co.uk/print/0,,332667033-110908,00.html
Posted by 大沼安史 at 01:27 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (1)
大好きな歌がある。音痴だけど、いつかカラオケで歌ってみたい歌がある。「奥入瀬」という歌だ。山本譲二の歌である。
「奥入瀬(おいらせ)」は言うまでもなく十和田湖に発する清流だ。湖に向かう道は、流れに沿って続く。助手席の亡妻とともに、出張ついでに一度、ドライブしたことがある。新聞社を辞めて一緒に仙台に帰郷した翌年のことだ。いまから十年ほど前の初夏。
横浜の部屋でときどきCDを流し、亡妻を乗せ、あの道をたどる。
歌手も曲(桜庭伸幸・作曲)も素晴らしいが、歌詞もいい(北川文化・作詞)。
出だしは、こうだ。
♪ 奥入瀬 雪解け 阿修羅の流れ 君をさがして啼く鳥 水面に浮かぶさだめ
時はめぐり また春がきて……
以下、全文は ⇒ http://onuma.cocolog-nifty.com/blog2/2008/02/post_0159.html
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Posted by 大沼安史 at 01:48 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (1)
米フロリダ州最高裁は1月5日、同州政府が実施している教育バウチャー(学習券)について、税金を公教育以外の私立部分に投入することは州憲法に違反するとして、違憲判決を下した。
ニューヨーク・タイムズ(電子版、1月6日付け)など、各紙が一斉に報じた。
最高裁判事5対2による判決は、州当局にバウチャー・プログラムの停止を命じている。
これに対して、ジェフ・ブッシュ州知事(大統領の実弟)は、州憲法の改正を含むあらゆる法的手段を駆使し、バウチャーの存続を図る方針だ。
連邦最高裁への上訴の道は、ワシントン・ポストはありうるとしているが、ニューヨーク・タイムズ紙は、これはあくまでフロリダ州レベルの問題で、原・被告とも州法での決着で合意しているとして、ありえないとの見方を示している。
フロリダ州最高裁が違憲判決を下したのは、ブッシュ知事が旗振りして進めてきた「機会奨学金(オポチュニティー・スカラーシップ)プログラム」。
標準テストによる判定で「失敗学校」と認定された公立学校の生徒たちに学費を支給し、私立学校へ転校する道を切り開く制度だ。現在、730人の子どもたちが、制度の恩恵を受けているという。
このバウチャーを違憲だとして訴えていたのは、州内に住む父母らで、それを教員組合などが支援していた。
同州のバウチャー反対派は、税金が学費のかたちで私立の宗教学校に使われていることも、政教分離の原則に反するとして批判していたが、州最高裁はこの問題に直接、触れなかった。
フロリダ州憲法には、「画一的(uniform)で、効率的で、安全で、世俗的で、高い質を持った無償教育を法律(州法)でもって十分に供給されねばならない」という条文があり、今回の最高裁判決は、バウチャーの対象校の私立学校はこのなかの「画一的」という部分にあてはまらない、「条文に違反する」と指摘している。
このフロリダ州最高裁の判決について、AFT(全米教員連盟)では、「非常に励まされる」(コルテーズ副委員長)として評価している。
これに対して、ブッシュ知事は「われわれの州のアカウンタビリエィー(結果責任)にとって、悲しい日になった」と語った。
一方、バウチャー支持の立場から裁判にかかわって来た「司法研究所(The Institute for Justice)」は、今回の判決が全米の流れを変えるものではないとして、「影響は戸惑ってしまうほど浅いとの見方を示した。
米国では米連邦最高裁が2002年に、オハイオ州クリーブランドで実施されているバウチャーについて合憲を判断を示すなど、バウチャ制度化への動きが強まっている。
連邦議会はハリケーン「カトリーナ」で被災した子どもたち、35万人に対しバウチャーを支給し、就学を援助することを決定したばかりだ。
〔大沼 解説〕
今回のフロリダ州最高裁の判決は、「公教育は画一的でなければならない」とする、産業社会期の教育観にもとづく州憲法の条文をその通り適用し、短絡的に、というか、条文に従う「法の番人」として当然の判断したまでのことで、「教育バウチャー」の持つ可能性それ自体を否定するものではない。
アメリカのバウチャーの悲しさは、ジェフ・ブッシュらのような新保守主義や、ネオリベ(新自由主義者)らによって、教員組合をたたきつぶし、宗教私学を利する手段として利用されていることだ。
統制と支配の装置と化した公立学校システム。そのなかで喘ぐ子どもたちを救う、自由(リベ)の道具としての本来的なあり方、可能性に対しては、十分、目を向けられないのが現状だ。
バウチャーの社会政策的意義を強調した、バークリーのクーンズやシュガーマンではなく、市場原理主義者のフリードマンがいまなお、バウチャーの教祖的な存在として注目を浴びているのは、そのためである。
ネオコン、ネオリベらには、バウチャーによって、貧しい子どもたちを画一教育から救うという発想はない。
ただただ、民主党リベラルの牙城となっている「公教育」をたたき潰したいだけである。
そのような「バウチャー攻撃」に対して警戒感を持ち、「公教育」を守りたいという、制度リベラル派の気持ちは、わたしとしても痛いほどわかる。
しかし、その「公教育」が、子どもたち(そして教師たちの)「学ぶ(教える)自由」を圧殺し続けるものであるなら、それに対しても、わたしたちはNOと言わなければならない。
日本でも、とくに公立学校の子どもたち(教師たち)は悲鳴を上げ、NOを叫び続けているではないか。
そうした自由を圧殺している公立学校システムを、別の形の「公教育」システムに変えていく、その手段として、バウチャーは有効であると考える。
アメリカのミルウォーキーやクリーブランドといった都市部でバウチャー導入が構想されたとき、貧しい家庭の子どもたちのため、その先頭に立って闘ったのは、いずれもリベラルな(民主党)の黒人女性州議会下院議員である、という事実を忘れてはならない。
フロリダにおける、ジェフ・ブッシュら一派は、開票操作で「ゴア新大統領」の当選を阻んで実兄のジョージ・ブッシュをホワイトハウスに送り込んだ挙句、「9・11」の朝には、ブッシュ大統領の「アリバイ工作」まで手伝った。
そういう輩が、フロリダのバウチャーを進めて来たことは、たしかな事実である。
しかし、それだからといって、バウチャーを彼らの専売特許にしてはならないことも、教育改革を構想する上で重要なことである。
今回のフロリダ州最高裁判決を、バウチャーの使い道、使い方を、子どもたちに寄り添うかたちで冷静に考え直す、そんな機会としたい。
⇒
Posted by 大沼安史 at 01:29 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
「教室施錠『逃さぬため』」
「京都・小6殺害 塾講師が供述」
「講師の内面 見極め難題」
日曜日(12月11日)の「朝日」朝刊1面に、こんな見出しの、準トップ記事が載っていた。
宇治市で起きた、例の事件の続報である。
朝、友人に頼まれたモーニングコールをかけおわり、寝床に戻って記事を読んでいるうちに、「荒地(あれち)」という言葉が心に浮かんだ。
荒地、英語でいう、Wasteland。
自然の荒地ではない。
T・S・エリオットの詩、以来、近代文明により荒廃し、不毛の地と化した、わたしたちの世界を指すようになった言葉だ。
昼、ジョギングから帰り、米国のサドベリー・バレー校から届いた原稿の翻訳に取り掛かったら、もうひとつ、気になる表現にぶつかった。
in a sterile atmosphere
翻訳原稿では「つまらない環境」と、とりあえず訳しておいたが、「実を結ばない環境」、とでもいった方が、意味的にはより正確かもしれない。
ともあれ、その「実を結ばない環境」と「荒地」のふたつが、ひとつになって、いま、このブログを書いている、胸の奥の方で、目覚ましのベルのように鳴り続けている。
京都・宇治市の「学習」塾で、「先生」が「生徒」を「教室」で「殺した」。
加害者は同志社大学の4年生(23歳)。
被害者は小学校6年生の女子(12歳)。
11歳しか違わないのに、片方は「先生」になり、もう一方は「生徒」になっていた。
「先生」をしていた大学生は、受け持ちの「生徒」を、「教室を内側から施錠し……閉じ込め」、包丁で刺した。
ハンマーも用意していたという。
「先生」が「生徒」の命を奪った。
包丁で首を刺し貫いて。
刺してもだめなら、ハンマーで頭蓋骨を叩き割っていたかも知れない。
「先生」はなぜ、「生徒」を殺すことができたか?
それはたぶん、「先生」の側に、「生徒」に対する、一方的で絶対的な支配があったからだ。
教え込む。従わせる。
課題を出す。解いて来させる。
凶行は一方的・絶対的支配の延長線上で起きた。
教え込む・課題を出す「教育活動」の「限界状況」のなかで、「殺人」は行われた。
「生徒」はおそらく、「先生」に従わず・解いて来なかったのだろう。
「先生」は「生徒」の抵抗に遭い、「先生」でなくなりかけていた。
受験競争をそこそこに勝ち抜いたこの同志社大学の学生にとって、いま「先生」として、その子に教えていることは、自分という存在を形成する大事な部分であり、自分自身のアイデンティティーの一画をかたちづくるものだった。
それが「生徒」に否定された。
「生徒」に否定されるということは、自分が「先生」でなくなる、ということである。
ふつうの「学校」ならいい。「先生」は、その「生徒」に頭が悪いというレッテルを貼り、低い成績をつけ、「塾へでも行って勉強して来い」と怒鳴りつけていればいいのだから。
しかし、ここはあいにく「塾」だった。
朝日朝刊によれば、それも厚生労働省の委託で、講師の「技量認定システム」づくりが進む、「先生」の能力評価に熱心な「塾」だった。
そこで「生徒」の抵抗に遭えば、「先生」である自分は「先生」でなくなる。
おそらくこの同志社大学生は、「先生」である自分の全存在をかけて、自分を否定するものを抹殺しようとしたのだろう。
最初から殺意があったかどうかはわからない。脅すつもり、だっただけかもしれない。しかし、殺意を制御できず、包丁で突き刺した。
その瞬間、この若者のなかの「先生」は、「先生」として「完結」した。
それも、「一対一」の、「教室」のなかという、まさに「教育的なシチュエーション」のなかで。
包丁の先は、女の子のなかの「生徒」でない部分に向かっていたのだろう。
その部分を貫きとおすことで、「先生」の「教育活動」は最高点に達し、そして12歳の少女の未来と可能性が奪われた。
不条理なまでの純粋さ。
それはおそらく、「塾」がふつうの「学校」のような強制力を持たないことで起きた、増幅された悲劇とでも呼ぶべき種類のことであろう。
しかし、忘れてはならないのは、同じようなことが、塾ではなく「学校」で、これまで繰り返し、起きている事実である。
鉄製の校門をぶちかまして、登校して来た生徒を死なせたり、態度が悪いと殴り殺したり。
体罰や暴行はまさに日常茶飯事である。
宇治市の事件は、そうした「学校」の状況が、「塾」にまで及び、極端なかたちで噴き出したとみるべきであろう。
「荒地」のような日本の教育の風景。
命の実を育てるどころか、「先生」が「生徒」を「教室」のなかで殺してしまう、日本の教育の不毛。
サドベリー・バレー校から届いた原稿にあった、「実を結ばない環境」とは、「先生」が「生徒」を一方的・絶対的に支配し、従わせ・解いて来させる、ふつうの「学校」の「教室」を指す言葉だ。
ボストン郊外にある、その自由の学校には、「先生」もいなければ「生徒」もいない。子どもたちを閉じ込める「教室」もない。
上下関係もなければ、年齢差別もない、デモクラティックなコミュニティー。
ナチュラルな「学び」のなかで、こどもの数だけ結実が進む。
同志社大学の学生の「内面」を探りながら、サドベリー・バレーのような場所を、この日本に、もっともっとつくって行かねばならないと、痛切に思った。
Posted by 大沼安史 at 10:25 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (2)
アメリカのチャータースクールは新たに424校が開校して、全米で3925校に。在籍児童生徒数も107万6964人と、大台に――ワシントンのNPO、「教育改革センター(CER)」の調べて、こんな結果がわかった。
来年度(2006~2007年度)に90校が開校することも、すでに決まっている。
アメリカのチャータースクールは、これでいよいよ「4000校・100万人」の時代を迎えた。
州別では、多い順に①カリフォルニア(592校)②アリゾナ(449校)③フロリダ(326校)④オハイオ(277校)⑤テキサス(259校)⑥ミシガン(233校)――の順。
詳しくは ⇒
http://www.edreform.com/index.cfm?fuseAction=document&documentID=2214
Posted by 大沼安史 at 11:15 午前 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
オランダのアムステルダムにある、アンネ・フランクの住んでいたアパートが改装され、10月29日にオープンした。
戦時中、あの、ユダヤ人少女が家族とともに潜み、ナチスの手に引き渡されるまで「日記」を書いていたアパートである。
改築工事の完成を祝う式典には、アムステルダムの市長と、アンネの親族の最後の生き残りである、バディー・エリアスさんが出席した。
時計の針を昔に戻す改築工事だった。
戦後に付け加わった要素はすっかり取り払われ、アンネが生きた当時の空間が戻った。
市の住宅局に代わって、「アムステルダム難民都市財団」が管理を引き受け、毎年1人、政治的な迫害にも負けず、執筆活動を続ける、世界の作家に提供する。
最初の「アンネの家の作家」には、アルジェリアの小説家であり詩人でもある、エル・マーディ・アチェルショールさんが選ばれた。
アチェルショールさんは、歴史の嵐に耐えてきた、この象徴的な部屋の中で、新しい小説を書く。
こんな話を、英紙インディペンデント紙(電子版)で読んで、朝から感動した。
レトロに改装された「アンネの部屋」には、アンネの使った木の机が、昔のまま、置かれるのだという。
それを使って、現代の迫害を生きる作家は書く。
「アンネの日記」が綴られた、その机の上から、新しい作品が生まれる。
それはきっと、希望の文学になるに違いないと思った。
政治的、社会的、文化的、あるいは宗教的な迫害の下、文章を書き続ける作家にとって、机の上は最後の拠り所であるだろう。
その四角い小さな空間こそ、作家にとっての「世界」であり、生きる場所である。
だれにも邪魔されない机の上……
それはもしかしたら、「低学力だ」、「意欲がない」、「生きる力に欠ける」と罵られ、点数と序列の迫害にさらされ続ける、日本の子どもたちにとっても、大事な大事な、絶対に守られるべき、プライベートで不可侵な、秘密の場所だといえるかもしれない。
机の上の自由と平和は、いつの時代も、どこにあっても、希望の灯火のように守られなければならない。
それは、「日記」をもっともっと書きたかったに違いない、13歳のアンネの思いでもあるだろう。
少女の祈りが宿る「アンネの机」が甦った。
Posted by 大沼安史 at 11:34 午前 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
英国のブレア政権は10月25日、大胆な学校改革案を盛り込んだ教育白書を発表した。
英国内、全ての公立の小(初等)、中(中等)学校を、民間セクターに支援された「自治学校」(independent state school)に転換していくという、「教育革命」とも言うべき、思い切った大改革だ。
法的な準備作業を年内に終え、来年1月1日に法案として発表する。
英紙、ガーディアン(電子版、10月26日付け)の報道によると、ブレア政権が奨励する、新しいタイプの公立校は、「自治トラスト学校」(self-governing trust school)とも呼ばれる、独立した「自治学校」。
民間セクターとの連携のなかで運営される独立公立校で、大学や父母グループ、地域団体(community oraganization)のほか、企業、宗教団体、慈善団体(charity)の支援を受ける。
学校運営する組織の任命権はもちろん、学校の財産の運用・処分権、さらには入学者の選抜などについても独自の権限を持つ。
カリキュラムの決定についても、大幅な権限を持つほか、スタッフの雇用権も手にする。
教職員の給与、待遇も、中央政府の文部相に対して願い出ることができる。
この「自治トラスト学校」になるには、運営主体が父母たちと相談したうえで、地方教育局(LEA)に対し、提案しなければならない。
大学や慈善団体、富裕な個人といった個別トラストは、複数の「自治トラスト校」を運営できる。
これがブレア政権が描く新しい公立校のイメージだが、英国内に先例がないわけではない。
今回の改革案がモデルにしているのは、ブレア政権が2000年から、ロンドンなど都市部で開設を進めている「アカデミー」校だ。
この「アカデミー」は、当初、「シティー・アカデミー」として、崩壊の危機に立つ都市部の公教育建て直しのため導入されたもので、米国のチャータースクールをヒントにしている。
(大沼注 米国のチャータースクールの第一号は、ミネソタ州の「シティー・アカデミー」校。そこから、この名前が生まれたようだ。シティーの名が外されたのは、都市部以外でも開校していくため)
現在、英国内に17校(うち10校はロンドン市内)開校されている「アカデミー」は、慈善団体などの民間セクターが200万ポンド(日本円で約4000万円)の資金を用意し、これに英国政府が2000万ポンドの公的資金を上乗せしてつくる中(等)学校で、地元の地方教育局(LEA)の規制を逃れ、独自の学校運営ができるのが特徴だ。
ブレア首相の労働党政権は1997年に発足以来、保守党政権の「スペシャリスト・スクール」(specialist school)政策を引き継ぎ、公立の中(等)学校(セカンダリー・スクール)に民間の力を導入し、特色ある学校づくりを進めて来た。
この「スペシャリスト・スクール」は、提携・連携先から5万ポンドの資金を調達し、芸術なら芸術、ビジネスならビジネスの独自カリキュラムを組むことができる制度で、現在、英国内の全中(等)学校の4分の3以上、2382校が、スペシャリスト・スクールとしての「ステータス」を獲得している。
この「スペシャリスト・スクール」も、「アカデミー」とともに、今回、ブレア政権が打ち出した「自治学校」構想の母体になっている。
言い換えれば、これら「アカデミー」「スペシャリスト」の延長線上に、今回のきわめてラディカルな改革案が提起されたわけだ。
ブレア政権の発表に対し、低コストの私立学校群60校を運営する教育企業のGEMSや、「アカデミー」のスポンサーにもなっているキリスト教系慈善団体「ユナイティド・ラーニング・トラスト」が強い関心を示している。
ブレア政権の今回の改革案では、父母の権限も飛躍的に強化された。
父母たちは、学校を新設することが可能になるほか、だめな学校の閉校を要求する権限を手にする。こうした父母たちの要求にLFAは拘束され、父母の要求がなかなか満たされないときは、中央政府が介入するという。
各「自治学校」には、「父母協議会」も設置されるが、「自治学校」にまだ転換していない公立校についても、同じような父母の組織をつくるよう奨励する、としている。
ブレア改革案には、子どもたちの教育に失敗した「ダメ学校」に対する措置も織り込まれている。
12ヵ月の猶予期間内に改善のみられない「ダメ学校」は、「新しい運営者からの競争」にさらされるという。「自治学校」あるいは「アカデミー」として再出発する道が切り開かれる、のだそうだ。
こうしたなかで、LEA(地方教育局)の教育委員会の権限も大幅に削減され、IEAは公教育の「プロバイダー」(提供者)から、生徒・父母を代表する「コミッショナー」へと役割を変える。
今回の改革は、1940年代に行われた「コンプリヘンシブ・スクール」改革に次ぐ、60年ぶりの大改革だが、政府の関与を薄めるという意味で、正反対のベクトルを持つ、といえる。
ブレア首相の提案に、労働党の左派、教員組合から一斉に反発があがっているのは、このためだ。
以上が、今回、発表された「ブレア教育改革」をめぐる、おおまかなスケッチだが、筆者(大沼)の私見によれば、地域ぐるみ、マクロに改革しようとした「教育アクション・ゾーン」の失敗を踏まえ、教育改革を個別の学校を単位にミクロに実施しようとするものと思われる。
お手本はおそらく、同じ労働党の、ニュージーランドのロンギ政権が1990年代に実施した「自治学校」導入を柱とする「明日の学校」改革。
ブレア首相の構想が、法案化のなかでどのように肉付けが施され、具体化されていくか、見守りたいと思う。
Posted by 大沼安史 at 04:36 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
今朝(10月23日)の新聞を見て、うれしくなった。寝床で読み終わり、曇りガラスの窓を開けると、青空だった。気分爽快になった。
朝刊(朝日)には、フィンランドの教育ルポが載っていた。大島大輔さんという記者が現地を訪ねて書いた報告記事だ。
読みながら、なるほど、なるほど、と、ひとり頷いていた。
朝日の読者には教育関係者が多いというから、いまごろ、きっと、大勢の日本の学校の先生たちも読んでいるはずだ。
みんな、うらやましがっていることだろう。
フィンランドは、OECD(経済協力開発機構)の国際学力調査(PISA、2000年・2003年実施)で、世界トップを行く「高学力の国」。
大島記者の報告によれば、北欧のこの「森と湖の国」では、
・教科書も授業メソッドも学校が選ぶ。
・国のカリキュラムは削りこまれて、いまやガイドライン的なものに。自治体と学校は、このカリキュラムに基づいて、自前の「指導要領」をそれぞれつくっている
・ヘルシンキ市内の小中一貫校の4年生のクラスの週間の時間割には、教科が書き込まれていない×印の箇所が11ヵ所もある。全体の4割が×印。この×印のコマには、こどもたちの理解状況に応じて、やりたい教科をはめこむ。
・全国学力テストも行っているが、一定数を抽出して実施し、その結果も全国平均を公表するだけ。学校のランクづけはしない。
―― のだそうだ。
「低学力」の日本と真逆。
まるで「倒立した鏡像」を見ているようだ。
学校の自治、教育の自由。
文科省の「統制教育」で息の根をとめられていたものが、この国にはある。
そのことを、この記事であらためて知って、うれしくなった。
思わず、深呼吸したくなるような、酸素をいっぱいふくんだ、フィンランドからの新しい風……。
この記事を、文科省の人たちがどう受け止めるのか、知りたいとも思った。
「低学力」を克服するため、全国学力テストを、任意抽出ではなく、小6、中3の全員に対し、一人も残さず、悉皆調査で実施する、その意味はどこにあるんだ、と聞きたくもなった。
教室を酸欠状態にして、教える・学ぶ喜びを根扱ぎにし、結果的に「低学力」をもたらしておいて、いまさら「学テ」もクソもないだろう。
「統制教育」のこの国は、テスト、テストで明け暮れる、「試験の国」でもある。大学の入試センター試験を含め、膨大なテストの山を築いているのだから、この国の教育のどこに問題があるのかぐらい、とうに知っていなければらないはずだ。
日本にとっていま最も大事なことは、「学力」を調査することではない。そんなことは、すでにPISAで、わかっていることでないか。
調査すべきは「教育力」――この国の「低学力」をもたらした「低教育力」である。
いったい何が、この国の学力を低下させているか、文科省の責任問題も含め、その「低教育力」を問うことである。
何が問題か、学び取ることである。
これ、すなわち「学ぶ力」――。
文科省が「学ぶ」ことを放棄して、どうして子どもたちにだけ、「低学力」を問えるのか?
先日の地震で、部屋の壁に積んでいた本の「柱」が崩れ、探していた1冊が偶然、出てきた。
PISAの最初の調査(2000年)を受け、デンマーク政府が実施した点検調査報告書『デンマーク PISA2000からの教訓』(OECD刊)である。
デンマークも日本と同様、「世界トップクラス」の教育力を自認していたが、PISAの第1回調査で、実は「高教育力」の国ではないことがわかった。
たとえば読解力(平均点)でデンマーク(497点)は、フィンランド(546点)はもちろん、スウェーデン(516点)、ノルウェー(506点)を下回り、OECD全体の平均(500点)にも届かなかった。
内村鑑三の『デンマルク国の話』(岩波文庫)にもあるように、日本と同じく、デンマークは無資源国。人材だけが資源とあって、公教育に力を入れ、その「高い教育力」を自らの誇りとして来た。
それが、PISAで、このありさま。
そのショックのほどは、日本以上のものだったろう。
しかし、デンマーク政府は偉かった。人権と福祉のこの小国の文部省はさすがだった。
なぜ、自分の国の教育はダメになったのか、国外の研究者たちの力も借りて、原因を突き止めようとしたのである。
その、結果が、この点検調査報告書の『デンマーク PISA2000からの教訓』だった。
内村鑑三が讃えたデンマルク国の政府には、「学ぶ力」が残っていたのだ。
翻って日本の文科省の役人たちに、デンマークのような自己批判力、自己責任能力はあるのだろうか。
諸君らに、自分たちが統括している日本の教育を、国際的な視野のなかで見つめなおす、デンマークのような気概はありや。
来年、なにがなんでも「学テ」を全国の全小・中学校で行うというなら、せめて同時に、全国の小6、中3に対して、無記名のアンケート調査を実施し、この国の教育の何が問題なのか、どこが悪いのか、学習の当事者である子どもたちの意見を聞いてほしい。
その結果が「低評価」であれば、その点につき、教育行政を改善していく。
そのぐらいのことは、是非ともしてもらいたいものだ。
そこにこそ、「低学力」克服を目指す「教育力向上」の道がある。
Posted by 大沼安史 at 10:42 午前 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
「ギャップ年(gap year)」。
そういう英語があることを、最近のワシントン・ポスト紙で知った。
10月11日付けの同紙の記事、「大学への道で、ドトールするティーン(10代)らが増えている」で教えてもらった。
大学に行く途中、全国チェーンの、あのコーヒー店に毎日、立ち寄る、それが「ギャップ年」の意味ではない。
高校卒業後、大学生活をそのまま始めるのではなく、1年間のドトール(detour)、つまり「寄り道」をする。それが、「ギャップ年」だ。
ギャップとはもちろん、有名衣料チェーンの店の名でもあるが、「溝」といった意味を持つ、これまた英語である。
日本語にもなっている。「彼とわたし、考え方にギャップがありすぎるのよね」の、あの「ギャップ」。
ポスト紙によれば、アメリカでも日本同様、「学習」一筋、わき目もふらず、ひた走り、大学に合格したのはよいが、そこで燃え尽き、目的を見失ってしまう若者が増えている。
そんななかで、かの地では、そんな大学生にはなりたくない、したくない、というまっとうな考え方が、若者の間にも、大学当局の間にも生まれ、それが「ギャップ年」を広げている、という。
具体的には、どうやって「ギャップ年」をとるのか?
大学に合格したら、1年間の休学を認めてもらう(大学の側はその申し出を認める)。そして、その1年間を好きに使って、自分を見つめ直す。
ギリシャのクレタ島で羊飼いをしたり、ロック・バンドで音楽活動をしたり、ロシアの孤児院でボランティアをしたり。
そんな経験のあと、大学生活をスタートさせる――これが「ギャップ年」、寄り道してからの再スタートである。
欧州が先進地で、とくに英国では10%以上もの大学進学者が1年間、さまざまな経験を積んでいるそう。ウイリアム王子はチリの南部でボランティア活動し、ハリー王子はアフリカなどの孤児院で働いたという。
このシステム、日本でだってできないことではないだろう。
「病気などやむをえない事情」による「休学」の制度を、拡大かつ柔軟に運用すればなんとかなるはずだ。
「予約入学」制度を新設して、入試合格者には、1年後の「入学」資格を付与するようなことも、考えられる。
大学全入時代、それくらいの柔軟さがあってしかるべきだ。学生募集のセールスポイントにもなる。
もちろんこれは、教育行政の検討課題にもなるべきことである。
「ゆとり教育」を自らつぶし、子どもたちの「夏休み」まで取り上げてしまったのだから、せめてもの罪滅ぼしに、文科省のみなさん、いかがですか?、この「ギャップ年」のアイデア。
いくらなんでも、考え方にギャップ、ないですよね?
Posted by 大沼安史 at 09:48 午前 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (1)
ハリケーン「カトリーナ」の被災者が避難する米テキサス州ヒューストン市の教育委員会は、閉校した公立校の空き校舎を、被災家庭の子どもたちのための、臨時のチャータースクールとして活用することを決めた。
地元紙、ヒューストン・クロニクルが10月1日に報じた。
新設されるチャータースクールの名は、「NOW・カレッジ・プレップ」。N(ニュー)O(オルリーンズ)W(ウエスト)……ニューオルリーンズの西の、大学進学を目指す学校、という意味。
委託先は、ヒューストンを発祥の地として、全米にチャータースクールを45校、展開している教育NPO・KIPP(知識は力、プログラム)。
K-8(幼稚園から第8学年まで)の子どもたち600人を受け入れる。すでに400人が入学の意思表示をしている。
教師になるのは、大学新卒のボランティアたち。
開設期限はとりあえず、来年8月までの今年度いっぱい。
ヒューストン市教委はその後も、運営委託先を選考し直して、チャータースクールとして存続させる方針だ。
Posted by 大沼安史 at 07:23 午前 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
ハリケーン被災地の米ルイジアナ州で、連邦政府がチャータースクールの再建・新設・拡張による、公教育復興支援に乗り出す。
同州のバトン・ルージュからの情報によると、連邦政府は2900万ドルを支出し、ハリケーンでダメージを受けたチャータースクール11校を再建するほか、あらたに10校、設ける。
さらに、5校の既存チャータースクールを拡張し、被災家庭の子どもたちを受け入れる。
新設のチャータースクールは遅くとも、年明けの1月には開校する。
バトン・ルージュではすでに、地区センターに米国赤十字社が開設した避難民のシェルターに、チャータースクールが設けられている。
Posted by 大沼安史 at 07:19 午前 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
文科省による全国「アスベスト校」調査の中間報告が9月30日に発表された。142の公立校で「飛散の恐れ」があるという。
今朝の新聞で読んで、「あーあ、またか」と思った。
「飛散する恐れ」(?)――たぶん、文科省のペーパーに書いてある通りの表現だろうが、正確には「これからも飛散する恐れ」であり、同時に、これまですでに「飛散した恐れ」であるだろう。
もっと言えば、「すでに飛散したアスベストを、子どもたちや教職員、あるいは父母ら関係者が吸引した(&吸引する)恐れ」である。
だからこそ、アスベストが緊急の、全国調査を要する問題だったではなかったか?
危険なものの「危険性」を、するりと「安全性」と言い換える、あのやり方である。
発表の記者会見の席で、どうしてこういうゴマカシを批判できないのか?
報道によれば、「現段階で、文科省は健康診断の実施については各教委の判断に委ね、特に指示する予定はないとしている」(朝日)――だそうだ。
そして「ただ、児童・生徒や卒業生から健康上の不安の訴えがあった場合には、保健所や労災病院などの健康相談窓口を紹介するよう指導している」とも。
ちょっと待ってほしい。全国の142校でアスベストが「飛散した恐れ」がある、とわかったのだから、その学校だけでも即刻、健康診断を実施するよう通達するのが、公教育を預る政府機関としての筋ではないか。
アスベスト問題については、「健康被害」という、誰が考えたかわからない巧妙な言い方もされている。
健康被害?――いや、より正確には「人命被害」、あるいは無策な「官」による「公害」である。
ことを「学校」に限れば、「アスベスト」問題とは、子どもたちの命を将来的に奪いかねない「アスベスト校害」というべきだろう。
結局、文科省は日本の子どもの命と健康のことなど、ほんとうは何も心配していないのだ。
「低学力」は心配しても、アスベスト被害は気にもかけない。学力にしろ何にしろ、こどもたち一人ひとりの命あってのものだねではないか。
文科省は2007年度から、全国の公立学校の小6、中3の全員を対象に「全国学力テスト」を実施するそうだ。そのための事前準備に、来年度予算の概算要求で40億円以上もの「体制整備等予算」を計上している。
日本の学力を診断するだけなら、世論調査と同じように、抽出調査で十分である。
「学テ」予算を、「アスベスト診断」に回すべきである。
☆ 朝日新聞の報道は、以下で読むことができます。
http://www.asahi.com/special/asbestos/TKY200509290274.html
☆ アスベスト問題における「霞ヶ関」の混乱ぶりについては、以下の記事を参照してくだい。
http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/danmen/danmen2005/0721_2.html
Posted by 大沼安史 at 09:18 午前 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
文科省が所管する独立行政法人「日本スポーツ振興センター」が運営するサッカーくじ(toto)の累積赤字が、04年度決算で150億円に達すると、朝日新聞が9月29日付け夕刊で報じた。
同様の内容を、共同通信も同日、報じた。
これを受けて、当BLOGを開いている大沼は、同センターが法的義務に基づき、ネットで開示している役員の経歴と、04年度の「報酬等」支払い状況を調べた。
その結果、以下のことがわかった。
(1)同センター理事長の雨宮忠氏は、元文部省学術国際局長で、04年度の「報酬等」は1919万9千円。
(2)4人いる理事のうちの2人も、文部省のOB(若松澄夫理事は文部省の審議官を、高杉重夫理事は文部省スポーツ・青少年統括官を務めた)。
(3)残る理事のうちの1人は、大蔵省出身。
(4)理事長を除く理事4人の、04年度における合計「報酬等」支給額は、6372万7千円に達する。1人平均、約1600万円。
巨額の赤字を出しておきながら、ちゃっかり、報酬だけは懐にしていたということか?
(異論があるなら、本BLOGまでご連絡を)
こういうマネジメント能力のない天下りたちが、日本の教育を担っていたのか……だとするなら、なんとも情けないところだ。
もちろん、そうは思いたくない。
これだけの赤字を出したのだから、経営責任者として、きっと給与を返上したはず。
そういうことだろうから、センターとして是非、事実を公表していただきたいものである。
☆ 共同通信の記事は、以下でごらんになれます。
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=soci&NWID=2005092901002988
☆ また、同センターの幹部名簿や天下り幹部の04年度の「報酬等」については、以下で確認できます。
Posted by 大沼安史 at 08:26 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (1)
ジョナサン・コゾルが、「アメリカの恥(The Shame of the Nation:The Restoration of Apartheid Schooling in America)」という本を出した。
そのことを、遅まきながら、米誌「エデユケーション・ウイーク(EW)」の電子版に載った、コゾルに対するインタビュー記事(9月21日付け)で知った。
けっこうな年齢のはずなのに、へこたれずに、がんばっている………うれしくなって早速、「アマゾン」に注文を入れた。
コゾルは20代でボストンのスラム街にある公立校で教師になり、その経験を1960年代の終わりに「子どものうちに死んでいる(Death at an Early Age)」という本にまとめて発表し、以来、反骨の教育ライターとして、活動を続けて来た。ぼくの最も尊敬する、教育改革者の一人である。
そのコゾルにぼくはまだ、会ったことがない。一度、彼の「Free Schools」という本を翻訳しないか、という話が来たが、実現しなかった。ぼくにとってはいまなお、会ってみたい、訳してみたい人である。
EW誌によれば、コゾルはこんどの「アメリカの恥」をまとめるにあたって、全米11州の60校に取材に入ったという。都市部の公立校の現場に立って、アパルトヘイト(人種隔離策)が事実として進む、アメリカの教育の現状を書いた。
アメリカの公立校はいま、日本に似て(というより、その目にあまる先行事例として)「テスト、テスト」の成果主義、点数至上主義の波に呑み込まている。ブッシュ政権によるNCLB法(「一人の子どもも落ちこぼさない法」)が、全米の公立校に「標準テスト」(日本でいう学力テスト)を押し付けているせいだ。
コゾルは、EW誌とのインタビューのなかで、このような現状を、「ノンストップ・テストという社会病理的な体制(レジーム)」と、一撃の下に批判し切る。
「社会病理」? なるほど………このくだりを読んで、日本での「学テ」「低学力」をめぐる、あの気持ちの悪い狂騒の本質を、コゾルが抉り出してくれたような気がした。
来日したあるミネソタのチャータースクール運動家が、ぼくらとの懇談の席で、NCLB法を、「あれは、一人の子どももテストから落ちこぼさない法だ」と皮肉っていたことも、ついでに思い出してしまった。
コゾルはまた、アメリカの保守富裕層が、学力は金の問題じゃないといっていながら、現に私立校の高い授業料を支払って金で買っているじゃないか、という意味のことを、インタビューで語っていた。
リッチな郊外の白と、崩壊する都市部の貧しい黒の対比。そのコントラストが、「逆コース」で強まるいまのアメリカに、「制度的な正義」はない、とコゾルは言うのである。
しかし、この富と貧の二極化は、アメリカだけの風景ではない。アメリカの教育におけるアパルトヘイト的事態は、格差がますます開く、この日本の現実と重なることではないか。
今日(9月23日)付けの朝日新聞に、この国の公教育の現場での、子どもたちによる対教師暴力の統計データが紹介されていた。
小学生が先生に暴力を振るう。まさに学園、死なんとす。
日本の学校は、自ら「学校」を名乗りながら、少なくとも「学園」――子どもたちの「学びの園」ではなくなっているのだ。
インタビューの最後でコゾルは、こう言って、アメリカの若者たちに立ち上がるよう求める。
「わたしは、自分たちの持つ現実を本当の名前で呼び、それを変革するために表へ出て本気になって戦う勇気を持つ、品位ある若者たちの決起をこの目で見たい」
「学校」がもはや「学校」でなくなっているなら、そうハッキリ言い切り、新たに「学校」をつくり直す。そういう勇気は、日本のわれわれにも必要である。
Posted by 大沼安史 at 09:19 午前 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
米連邦政府は「ハリケーン・カトリーナ」で南部の居住地からの脱出を強いられた子どもたちの教育を支援するため、「被災バウチャー」を支給することを決めた。
2005-2006年度に限った緊急措置だが、対象となる児童生徒は30万人以上に達する見通し。
米教育誌「エデュケーション・ウィーク」が、発売中の9月21日号で伝えた。
連邦政府がバウチャー(学習クーポン)のかたちで支出する額は、19億ドルに上る見込み。児童生徒1人あたりの支給額は最大7500ドル。州政府による教育支出の90%以下の線に抑える。
ハリケーン被災家庭の子を受け入れた公立学校には、受け入れ児童生徒数に応じて(つまりバウチャー枚数分の連邦資金が投入される。
ふつうの公立校のほか、チャータースクールへの転校生も対象。
私立学校や宗教学校への転校生にも、総額4億8800万ドルのバウチャー支給枠が設けられている。
マーガレット・スペリングス連邦教育長官は16日、「われわれは前例のないことに取り組んでいる」と、今回の「被災バウチャー」支給が画期的なものであることを強調したが、民主党のケネディー上院議員は、公立校での実施については称賛したものの、私立・宗教学校にも適用されることについては批判的な姿勢を示した。
(大沼・注)ハリケーン被害により難民化した子どもたちの教育支援に、「バウチャー」が適用されることになった。
「バウチャー」は最終的に、公立学校(教育委員会)に支払われるが、仕組みとしては子どもたち(家庭)に交付され、その子が転校先に持ち込むことで、学校・教委側は初めて連邦資金を得ることができる。
つまり、「バウチャー」とはあくまで、子どもたち(家庭)自身について回るもの。
今回のような大規模災害の場合、被災者の避難先を把握するのは時間のかかることであり、「連邦政府―州政府―学区教育委員会―各学校」という「上意下達」式で、対策を資金を配分・交付することはきわめて難しい。
その点、バウチャーは被災児童生徒とそれを受け入れた学校による「下意上達」方式であって、事前の配分作業など必要がなく、そうした使い勝手のよさが、転校を余儀なくされた子どもたちを支えることになった。
Posted by 大沼安史 at 02:28 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
米ニューヨーク市のクライン教育長はこのほど、チャータースクールの建設費を最大3分の2まで公費補助する方針を明らかにした。
補助金の総額は、2億5000万ドル。チャータースクールの校舎建設費に対する、これだけの公費補助は、全米でも例がなく、同市におけるチャータースクール運動の進展に弾みをつけるものと見られる。
これに対して、同市内でチャータースクールを4校、運営するNPO、KIPP(「知識は力プログラム」)の代表者は、「必要性がようやく認められた」と、歓迎の意を表明した。
クライン教育長はまた、ニューヨーク州が設けている「州内100校」のチャータースクール開設枠について、撤廃するよう働きかけていくことを言明した。
ニューヨークでは昨年、チャータースクールが9校、開校し、ことしはさらに15校が誕生しており、同市内ではこれで47校を数えるに至った。
州内のチャータースクール数は、現在、同市内分を含め85校。
チャータースクールは全米各地で、校舎の確保難と資金不足に苦しんでおり、今回のニューヨーク市の決定は、こうした「壁」を突き破るものとして注目されている。
Posted by 大沼安史 at 03:10 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
米国東部のボストン市で、公立高校2校がそれぞれ3-4校の「テーマ・スクール」に分割され、このほど再出発した。
学習テーマ別に大規模校を分割・小型化し、よりパーソナルな高校教育を行うのが狙い。
ボストン・ヘラルド紙が9月8日に報じた。
それによると、分割されたのは、ウェスト・ロクスベリー高とハイド・パーク高の2校。
ロクスベリーは4分割、ハイド・パークは3分割された。
新しいテーマ校はそれぞれ300名から400名規模。
採用されたテーマは、「サイエンス」「健康」「エンジニアリング」「社会正義」の4つ。
「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」からの寄付をもとにした高校再生プロジェクトだ。
Posted by 大沼安史 at 04:01 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
米国のNPO「教育改革センター」のまとめによると、全米のチャータースクールは2004-2005年度時点で、3343校に達している。
在籍する子どもたちの数はおよそ100万人。
今年度の新規化開校は459校(在籍者数、約76000人)。
州別で最も多いのはカリフォルニアで533校。以下、アリゾナ509校、フロリダ301校、オハイオ255校、テキサス234校――の順になっている。
新年度の2005-2006年度に開校が決まっているチャータースクールは、全米で236校。
Posted by 大沼安史 at 09:54 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)
米国のチャータースクール推進団体のひとつである「チャータースクール・リーダーシップ協会」(本部=ワシントン)はこのほど、会の名前を「パブリック・チャータースクール・リーダーシップ協会」に変更した。
教育誌の「エデュケーション・ウイーク」が8月31日に報じた。
会名に「パブリック(公立)」を冠したのは、チャータースクールがあくまでも公立学校であることを強調するため。
協会はまた、「量より質を」など、チャータースクールが取り組むべき7原則を盛り込んだ「声明」を発表した。
Posted by 大沼安史 at 09:51 午後 2.教育改革情報 | Permalink | トラックバック (0)